ロシア兵墓地

日露戦争時、松山にあった捕虜収容所で亡くなったロシア兵を埋葬。毎年3月、日ロ関係者やボランティアで清掃活動を行う地域住民、中学生らが出席する慰霊祭が行われる。

日露戦争時、松山にあった捕虜収容所で亡くなったロシア兵を埋葬。毎年3月、日ロ関係者やボランティアで清掃活動を行う地域住民、中学生らが出席する慰霊祭が行われる。

電停大街道から松山城ロープウェイ東雲口駅舎まで続く通り。街灯や各店舗の看板などは統一されたデザインで、レンガ敷きの情緒ある通りだ。今治タオルや郷土料理の鯛めし店など、松山城観光の道のりを楽しませてくれる。毎年春に行われるお城まつりでは、大名・武者行列がここを練り歩き、毎年11月3日に行われる城山門前まつりでは歩行者天国になり愛媛の特産品、秋の味覚品が集まっている。松山商業高校の生徒によるパフォーマンスもあり、年々参加者が増え、現在では約3万人の人出で賑わっている。

中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。

慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地で生まれる。通称のぼる。翌年湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い丸い顔で鼻が低い低い妙な顔と話していたという。

小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。

小林一茶とも交友のあった、江戸時代の俳人・栗田樗堂が寛政12年(1800)に市中の隠を楽しむために結んだ庵。昭和24年(1949)に愛媛県の史跡に指定、平成12年(2000)から3年間かけて改修・復元された。庭園内の樹齢200年を超すというノダ藤の見頃は4月下旬。

俳句雑誌『ほととぎす』は、明治30年(1897)、子規の友人の柳原極堂によって創刊された。子規のすすめた俳句革新をバックアップし、20号まで発行。のちに高浜虚子が跡を継いだ。

「春や昔十五万石の城下哉」は、小説にも登場する松山を象徴する正岡子規の句。明治28年(1895)日清戦争の従軍記者として戦地に赴く直前の句。

「さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ」市役所前の堀端にある句碑。季題や定型にこだわらない碧悟桐の句である。碑の文字も彼独自の書体。

標高132mの勝山に造られた松山城は、山上の本丸に小天守や櫓が連結する連立式天守をもつ平山城。慶長7年(1602)に築城を開始し、約四半世紀をかけて完成したとされる。本丸跡(本丸広場)と二之丸跡(二之丸史跡庭園)、三之丸跡(堀之内地区)から成る城山公園は全体が国指定史跡で、天守をはじめ、乾櫓や野原櫓、隠門など築城当時から残る櫓や門など21棟が国指定重要文化財。安政元年(1854)に再建落成された天守では、歴代城主の甲冑や刀を展示。松山城の歴史が学べ、甲冑の試着体験も好評だ。最上階からは石鎚山から伊予灘までが一望できる。