あがたの森公園
旧松本高等学校跡を利用した公園。大正8年(1919)に植えられたヒマラヤ杉の並木と池を中心とした日本庭園が魅力。大正時代の木造洋風建築の校舎は「あがたの森文化会館」として保存・活用されている。駅前から東に延びるあがたの森通りを進むと、ヒマラヤ杉に包まれた淡いブルーの校舎が立つ公園に突き当たる。
旧松本高等学校跡を利用した公園。大正8年(1919)に植えられたヒマラヤ杉の並木と池を中心とした日本庭園が魅力。大正時代の木造洋風建築の校舎は「あがたの森文化会館」として保存・活用されている。駅前から東に延びるあがたの森通りを進むと、ヒマラヤ杉に包まれた淡いブルーの校舎が立つ公園に突き当たる。
歴史的建造物であるなまこ壁の蔵が連なり、センスのいい民工芸品店が多く集まり、甘味処も併設された文化会館や、珍しいはかり資料館などが立つ。電線が地下埋設されているので、酒造業や呉服、塩や肴など、街道筋の問屋街として賑わった昔の風情ある街並みを残しており、散策にぴったり。商店街の各所ではガイドマップが配布されている。
女鳥羽川にかつて多く生息していたカエルと、商店街に活気が“かえる”をかけている、縄手通りのマスコット。通りの中ほどにはカエル大明神が立ち、ユーモラスなカエルの石像やカエル撮影看板なども点在している。
大正8年(1919)に設置され、「松高」の名で親しまれた旧制高等学校。自由闊達な校風で、各界で活躍する多くの人材が巣立った。昭和25年(1950)の学制改革で、旧制高校の制度が廃止になるまで5000名余の人材を輩出。文学界では、唐木順三・中島健蔵・臼井吉見・辻邦生も卒業生だ。北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には、彼の松高時代が描かれている。本館と講堂は、あがたの森文化会館として市民に開放されており、復元校長室・教室の見学は自由。旧制高等学校記念館が隣接(大人310円)。
明治9年(1876)、地元大工棟梁の立石清重[たていしせいじゅう]によって建築された。瓦葺きの木造2階建ての建物は、白い漆喰の外壁と唐破風造の玄関の上に八角形の塔屋を載せた擬洋風建築。窓には舶来ガラスをふんだんに使用し、「ギヤマン学校」とよばれた。昭和38年(1963)まで使用された後、現在地に本館を移築。新築当時の姿に復原され、館内では当時の建築資料、教科書などが見られる。見学所要時間40分。
「国宝 松本城」の天守。5重6階の天守(国宝)を中心に渡櫓[わたりやぐら](国宝)で乾小天守[いぬいこてんしゅ](国宝)をつなぎ、辰巳附櫓[たつみつけやぐら](国宝)と月見櫓(国宝)を複合した独特の美しい構造。創建当時のまま現存する貴重な天守だ。外壁は白漆喰に黒漆塗りの下見板張りで、窓が少ない。内部に入ると、各階をつなぐ階段は急勾配なうえ、蹴上げが高く、居住性よりもむしろ戦闘への備えがうかがえる。最上階からは、美ヶ原高原や安曇平、北アルプスなどが展望できる。
天守築城のころに築かれた松本城二の丸の正門。明治4年(1871)に取り壊されて以来、石垣のみが残されていたが、平成11年(1999)3月に復元された。一の門(櫓[やぐら]門)と二の門(高麗[こうらい]門)からなり、門台石垣の上に時や登城を知らせる太鼓楼があったことから太鼓門と呼ばれた。年に3回構内の特別公開を行っている。
北アルプスや美ケ原高原の山並みを背景に立つ松本市のシンボル。天守が現存する城として、犬山城、彦根城、姫路城、松江城とともに国宝に指定されている名城。石川数正[かずまさ]、康長[やすなが]父子が文禄2~3年(1593~1594)ころ建てたと推定され、戦闘に有利な山城が多く築かれた戦国時代の中で、松本城は異色の平城。敵の侵入を防ぐ石落や鉄砲狭間などが見どころ。中町通りの北を流れる女鳥羽[めとば]川は、侍町と町人町を分けた川で、堀の役割も果たした。3月下旬~4月上旬は桜に包まれ、5月上旬~中旬には月見櫓前に小笠原ボタンが咲く。
多くの文人と親交のあった松本市出身の文化人、故池上喜作(きさく)氏の遺族から寄贈された邸宅と庭を市が改装した施設。百竹亭とは、池上喜作の雅号。閑静な和室や茶室は、お茶や生け花の稽古などで市民に利用されている。竹林を配した庭園の一角には俳人の荻原井泉水の句碑がある。4~12月の第1日曜には月釜が開催される(要確認)。
城下町の鎮護の神として、歴代城主にも篤く敬われてきた暦応2年(1339)創建の古社。菅原道真公を祀り、昔から「深き志の天神さま」として親しまれている。美しい朱塗りの入母屋造の拝殿や、優雅な姿の神楽殿が周囲の木々に映え、とても色鮮やか。学問の神様だけに、受験シーズンには合格御守や合格鉛筆、五角梅守などを求めに来る参詣者も絶えない。